令和四年一月 祥月命日講 《 施行完了のご報告 》
令和4年 1月8日(土)午前10時より、町屋光明寺本堂において令和四年一月の祥月命日講を厳修いたしましたことをご報告申し上げます。
皆さまに返送いただきました祥月命日講ハガキはご本尊阿弥陀如来の御前に浄納し、ねんごろに供養いたしました。多くのご供養のお申込みを賜りましたこと、あらためて感謝申し上げます。
合掌
一月の法話
皆様の懇ろなるご供養のお心により、ここに執行完了されましてございます。
ご来寺の皆様、本法要へお申込みを頂き、ご視聴、心を寄せて頂いた皆様、お疲れ様でございます。
法要の終わりにご挨拶を兼ねまして、町屋光明寺の玄関脇の伝道板の今月の言葉を紹介させて頂きたく存じます。恐れながらもう少々お時間を頂けますでしょうか。
いくつになるぞ 念仏申さるべし
これは、15世紀、室町時代の頃、浄土真宗中興の祖、蓮如上人が、新年の挨拶に来たご門徒の一人におっしゃったお言葉と言われています。
人は新しい年を迎えたとき、喪中などの場合を除き、原則として互いに、新年を迎えた事を喜ぶ挨拶をします。
しかし、これは一方で、時が経ったことという事でもあります。
この時代は数え年でしたから、新年を迎えたという事即ちまたひとつ年をとったという事。年をとったという事は、また一歩死に近づいたという事、その事を蓮如上人は、いくつになるぞ、というお言葉にのせて訓示しておられます。
そして後半の念仏もうさるべし、は、直接的には、南無阿弥陀仏の念仏を唱えよ、という事ですが、同時に、人は必ず死ぬものと心得、出来る限り悔いのない人生を送るべく、新年を機に今一度自身の心と向き合うがよいと蓮如上人は諭してくださっているのだと思います。
仏教では仏になる為、厳しい修行をします。座禅、滝に打たれる、一日中読経三昧、皆様も修行と聞かれた時、こうした荒行をイメージされると思います。
しかし、これは物理的にも環境的にも経済的にも、殆どの人は出来ないものでございます。
ならばせめて、南無阿弥陀仏と称える事で阿弥陀仏のお姿を心の中に思いつつ、日々それぞれの生活にベストを尽くそうというのが、浄土真宗の主な考え方でございます。
更に言えば、日々のそれぞれの生活そのものが修行であるわけでございます。人生の時に限りはあれども、人間の心、願望には限りはありません。
そうした中、自身が大切とする事、優先とすべき事を見極めて生きてゆけよと蓮如上人はこのお言葉を介し、諭して下さっているように感じられます。
皆様の大切な故人様、ご先祖様も同じお心なのではないかと思います。
なれば自身の幸福、志に向かい、良き日を本年も積み重ねる事が出来れば、それは何よりのご供養ではないでしょうか。
厳しい寒さが続いております、お身体をおいといください。お疲れ様でございました。