終活という言葉をこの数年、頻繁に耳にするようになりました。
終活について教わる講座やセミナーまであると聞きます。
日本では古くから〝死〟を口にすることは縁起でもないとタブー視されてきました。
あるいは、身近な人の死が近づくと菩提寺の住職と、その方に見合った葬儀や見送り方を相談した時代を思うと、社会の急激な変化を感じずにはいられません。
終活と同時に広まったもののひとつに、エンディングノートがあります。
人生の記録や大切な人たちに伝えたいことのほか、
介護や終末医療、葬儀のスタイルに対する要望、財産の分与などを書き残した、新しい形の遺言書だともいえます。
死んでからも自分らしさを守り抜きたい。死んだ後、子どもたちに負担をかけたくない。
親族がいないので誰にも迷惑をかけないように死の準備をしておきたい……。
そのような思いが、終活ブームの根っこにはあるのではないでしょうか。
自らの人生を振り返り、死と向き合う……それは大切で尊い行為です。
しかし一方でそうしなければならない現代社会の問題があるように思うのです。
終活は、家制度や家族の繋がりがしっかりと残っていた時代にはなかった考え方です。 かつて葬儀の主役は、あくまでも亡き人ではなく、遺族でした。
時代や社会の変化とともに、家や家族単位で向き合っていた〝死〟
ひいては、葬儀などの法事が、個人のものに変わったのだと実感します。
昔は、子どもや家族が死ぬまで面倒を見てくれました。
いえ、死んでからも供養を続けてくれました。
けれど、いま、自らの死後の心配までしなくてはならなくなってしまったように思えます。
昨今の終活ブームを見ていると、多くの人が終活の必要性を切実に感じて、死の準備に取りかかろうとしているのではないかと感じるのです。
取材・構成/山川徹