令和三年九月 祥月命日講 《 施行完了のご案内 》
令和3年 9月4日(土)午前10時より、町屋光明寺本堂において令和三年九月の祥月命日講を厳修いたしましたことをご報告申し上げます。
当日配信を予定しておりました法要ですが、配信機材トラブルによる不具合の復旧にめどが立たず、急遽中止させて頂くこととなりました。
ご迷惑をおかけして申し訳ございませんでした。
9月の法話
みなさま このように気候が激しく変動して、夏なのか秋なのかよくわからず、身体が気候の変化について行けません。ご家族の皆様にもお変りはありませんでしょうか。
さて、ここに小さい冊子があります。「法事のこころ③ー亡き人をご縁としてー」というものです。内容は、仏法をいただく事が法事の意味ということで、けっしてご先祖の冥福を祈るための行事ではありません。
亡き人はあなたにとってどのような方だったのでしょうか。自分にとって都合の良いひとは大切に思い、都合の悪い人は嫌いに思う。しかし、いずれの人もなくなれば仏様「諸仏」となります。いずれの方も、私に「人間は必ず死ぬものである」と自らの身をもって示されたのです。ご法事の場は、亡き人をご縁として「死」という人間の事実に向き合い、自分の人生を思う大切な場なのです。
また、ここにある本「仏教聖典」(仏教伝道協会)13頁にありますが、「釈尊の最後の教え」として記されています。
お釈迦様は80才で亡くなられましたが、ある村の鍛冶屋さん‘チュンダ’に食事をごちそうになって、その料理に入った豚肉(キノコという説もある)にあたって亡くなりました。
「弟子たちよ、今はわたしの最期の時である。しかし、この死は肉体の死であることを忘れてはならない。肉体は父母より生まれ、食によって保たれるものであるから、病み、傷つき、こわれることはやむを得ない。仏の本質は肉体ではない。さとりである。肉体はここに滅びても、さとりは永遠に法と道とに生きている。
だから、わたしの肉体を見る者がわたしを見るのではなく、わたしの教えを知る者こそわたしを見る。―略―弟子たちよ、今やわたしの最期である。わたしは今より涅槃に入るであろう。これがわたしの最後の教戒である。」と言って亡くなりました。
お釈迦様だから「本質は肉体ではない」のでしょうか。さとりはお釈迦様だけが得られるものでしょうか。
いつも私は申し上げますが、人間、生きているときは「肉体的命」と「精神的命―心のいのち」を併せもっています。自分たちのことを考えて、お釈迦様の「さとり」は精神的命、こころのいのちと置き換えられます。